プロフィール
大堀 亮造のプロフィール
- 施術したときは良くなっても、すぐに元に戻ってしまう人
- 治りたいと口では言いながらも心の奥底では治りたくない人
- 過去の自分を責めていて、自分のことが許せない人
- 幼少期に両親からの虐待を受けて、自己評価が著しく低い人
●プロフィール動画
●株式会社HAS PARTNERのインタビュー動画
●ポッドキャスト番組「経営者の志」のインタビュー
インタビュー記事「アダルトチルドレンに寄り添い、成果を挙げ続けるお父さん代行業」
はじめまして。
アダルトチルドレン専門カウンセラー、感情解放カウンセラー、操体師
大堀 亮造(おおほり りょうぞう)です。
私の天命は、父性を求めている人に対して、
心と体が調和した本来の自分(自然体)へと導き、
天命を果たせるよう自立をサポートすることです。
その手段としてカウンセリングと操体法の施術をしています。
一体どういったいきさつで今の仕事をすることになったのか?
私の生い立ち、サラリーマンを辞めて独立開業し、
アダルトチルドレン専門カウンセラーになるまでの
ストーリーを紹介させていただきます。
少年時代 ~強さへの憧れ
1975年(昭和50年)8月25日 父親の仕事の関係でオランダのアムステルダムで生まれ、3歳まで過ごしました。
帰国後は、就職するまで兵庫県神戸市北区の鈴蘭台という街で過ごしました。
神戸市立小部小学校時代の私はクラスの中では大人しくて目立たない存在。手を上げて発言するのが苦手で、自らは絶対にクラスの級長などには立候補しない子供でした。
野球、サッカー、バスケットボールなど、球技は全てが苦手。陸上や水泳は得意でしたが、なぜかチームプレイが凄く苦手でした。
本当は目立ちたい癖に、自分からは目立つ行動ができない内気な子供でした。
小学校の高学年になって柔道クラブに入りました。顧問だった榎本先生が柔道五段の猛者で、その道着姿が子供心ながらとてもかっこよかったのです!
柔道の受身など基本練習をしていると、自分がどんどん強くなっていくような気がしてとてもワクワクしたものです。
ちょうどジャッキー・チェンの映画「スパルタンX」や「プロジェクトA」などの影響も受け、この頃から「もっと自分も強くなりたい!」という「強さへの憧れ」が芽生えていきました。
神戸市立小部中学校に入ると、柔道部が無かったので友達に誘われて剣道部に入りました。
私にとって中学時代は暗黒時代で、楽しみと言えば週刊少年ジャンプ(当時はドラゴンボール、ジョジョの奇妙な冒険、幽遊白書などで全盛期だった)を読むことぐらいしかなく、剣道部の練習に打ち込む毎日でした。
でも、練習試合でいろんな学校へ遠征したり、大勢の人前で試合をするという経験が少しずつ自分への自信になっていきました。
県立兵庫高等学校に入学した後も引き続き剣道部に入り、入部当初から経験者だったこともあり、主将になりました。「剣道が強ければ女の子にモテるかも」と思ったのですが、期待に反してまったく駄目でした。
「大堀君は主将としては頼りない」と就任直後に女子から言われたのが物凄くショックだったのを覚えています。
剣道は強くてもプライベートでは相変わらず、自分に自信がなくて弱虫な自分のままだったのです。
少林寺拳法との出会い
1994年、関西学院大学商学部に入学。「いざというとき、剣道では棒がないと闘えない。素手でも闘える自信が欲しい。もっと強くなりたい!」そう思って何か武道系のクラブに入ることを決めていました。
実は、格闘技や武道にハマる人は「自分の弱さを克服したい」という強いコンプレックスをもっていることが多いのです。結局、関学の象徴である時計台前の中央芝生で練習していた少林寺拳法部に決めました。
「大勢いるからすぐに友達ができそう」という単純な理由でした。何も考えずに一心不乱に打ち込むものが欲しかったのです。
よく間違われるのですが、少林寺拳法というのは中国武術の少林拳とは別ものです。日本人である宗道臣先生が戦後の混乱期に、将来の日本のために青少年を育成することを目的につくった日本生まれの武道です。自己確立(自分のことは自分で責任をもってできるようになる)、自他共楽(半分は人のことを考えて行動する)という禅の教えをもとに四国の多度津で創始されたものです。
でも、当時の大学拳法部の練習というのは、崇高な教えに関係なく、ひたすらランニングと基礎体力の筋トレ、グローブでボコボコに殴り合うという体育会系のかなりハードなものでした。
通学路のアスファルトの坂道で拳立て伏せをしたり、裏山をランニングして河原で1000本突きをしたり、何かで失敗したら罰としてスクワットを40分させられたり、明石から関学の上が原キャンパスまで40キロを道着で走ったり・・・何も知らずに入った女の子が途中で泣いて一日で辞めるようなクラブでした。
そんな厳しいクラブに入ってしまったわけですが、私にとっては人生の転機がありました。1回生の夏合宿のときに練習中に過呼吸になり、生まれてはじめて自分の体力の限界まで追い込まれたのです。
あまりの情けなさに悔し涙が溢れました。私はこのとき「絶対に強くなってやる!」と誓ったのです。人間は限界まで追い込まれたときに、はじめて魂が起きてくるのだと思います。
その後、厳しい練習を乗り越えながら拳法一筋の大学生活を送っていきましたが、私が3回生で第31代目主将になったときに最大の試練が訪れました。練習の厳しさからか2回生の男子が全員辞めて女子1人だけとなり、新入部員が入らないとクラブが潰れるという存続の危機に陥ったのです。
幸いなことに5人ほど新入部員が入ってくれましたが、2~3人で練習することも多くて存続の危機はしばらく続きました。これは後から聞いた話ですが、ある日後輩のHが「先輩、人数少ないですね・・・」と不安気に言ったとき、「人数は関係ない!クラブ創立のときは2~3人からはじめたはずや。要はやる気の問題や!」と私が言い切ったことがあり、その言葉があったから辞めなかったそうです。
おそらく「自分一人になってでも最後までやりきる!」と覚悟を決めたことで後輩がついてきてくれたのでしょう。
苦労の甲斐あって卒業するころには人数も20名ぐらいになり、関学少林寺は見事に復活していました。
※1998年追い出し乱捕りのときの写真。
卒業式のとき、「何か辛いことがあったら、この中央芝生を思い出してください!」という後輩から貰った花むけの言葉で号泣したことは今でも鮮明に覚えています。「大学で学んだのは少林寺拳法だけ」と公言していますが、このことが今の操体の仕事に直結するとは思いもよりませんでした。
松下電器入社~リストラの影
1998年。まさに就職氷河期(山一証券、北海道拓殖銀行が潰れたとき)に松下電器産業株式会社(今のパナソニック株式会社)に入社しました。就職面接では少林寺拳法を情熱をもってやってきたことだけしか語りませんでしたが、リクルーター制度でトントン拍子に決まりました。
滋賀県のエアコン事業部に配属されて1年間内勤した後、家電量販ルートの営業として東京(浜松町)に転勤になりました。
当時の松下は家電量販ルートのエアコンはシェアが5%ほどしかありませんでした。(今はトップシェアで10%を超えているそうです。)
担当法人はコジマ、ヤマダ電機、ケーズデンキ。関東のYKKと言えば安売りで全国展開をしはじめた超大型有力法人。量販家電営業の中では一番伸び盛りの勢いのある法人でした。(当時はまだコジマが売上高日本一でした)
昔からの専門店(街の電気屋さん)を守るために攻め遅れた量販ルートを開拓するために、有力法人とのオリジナル専用機種を立ち上げる必要性がありました。専用機種、専用カタログ、専用POP、法人キャンペーンなどなど事業部内で誰もやったことがないことばかり。内勤の事務仕事に比べると創造的で非常にスリリングな世界でした。
当時はまだ接待営業が残っていて、夜中3時ごろまで飲んで先方と仲良くなれば「大堀くんはお酒強いね~」と気に入ってもらえたことで何百台も一気にエアコンのまとめ買いをしてくれたものでした。接待の翌日、気がついたらもうお昼で、ホテルの床の上に転がっていたことも2度ほどありました。今となっては古き良き時代?の懐かしい思い出です。
東京に出てきてしばらくすると、松下も創業以来の赤字ということでリストラすることになり、早期退職者が募集され、週刊誌などでも大々的に取り上げられました。
特に松下電器本体よりも、現場に近い販売会社でのリストラが激しく行われました。昨日まで一緒に仕事をしていた人が「今度、辞めることになったんだ」ということが多々ありました。
たとえ本人が一生懸命働いてきたとしても、会社が儲からなくなれば、ある年齢以上の人、ある学歴以下の人へのリストラに容赦はありません。綺麗ごとは一切通用しない厳しい世界なのです。
社内が暗い雰囲気に包まれる中で「このままサラリーマンを続けるより、何かで独立できたら・・・」と漠然と思うようになっていきました。
操体法との衝撃的な出会い
「何か手に職をつけたい!」会社のリストラを見ていて、少しずつそう思うようになっていきました。
少林寺拳法をやっていたので、体を治療することに興味が湧いてきて、整体やカイロプラクティックの学校に資料請求したり、見学に行ったりして情報を収集していました。
実際に自分も体感してみようと、会社の近くのカイロプラクティックにも通いました。腰痛改善で3回ほど通ったある日、先生に尋ねてみました。
「これって自分ではできないんですか?先生は自分が腰痛になったらどうするんですか?」
「う~ん、自分でできないのが僕らの弱点ですね。お互いにやりあいますけれど・・・」
「これは何かが違う!」と感じて、確か少林寺拳法の友人がやっていた操体法というのは自分でもできると言っていたなぁとインターネットで検索してみたのです。
2002年3月のことでした。今も師事している青木先生の操体法の施術は衝撃的なものでした!
ほんの1時間足らずで体がガラッと変わったのです。痛みが一瞬で取れる!そして、自分でもできるようになる!
「ああ、これが自然体なんだ!」丹田とか自然体とか言葉だけしかわかってなかったことが実感できたのです!
立ち方が変わったことで、少林寺拳法の突き、蹴りがその場で変化して驚きました。
「これは面白い!」と思った私はすぐに本格的に習うことを決めました。
何よりも青木先生の生き方、考え方に魅かれたのです。「ああ、こんな自由な生き方もありなんだ。自分も自由になりたい!」とそのとき強く思ったのでした。
退職の決断
操体にハマっていく中で、仕事の方はどんどんマンネリ化していきました。5年間コジマ担当として、ほとんど同じ仕事をしていたので飽きてしまっていたのです。
人間も水と同じで流れずに滞ると腐るものです。次第に会社への不平不満や愚痴が増えていきました。
そんな中で主任昇格の試験を受けることになりました。
主任研修では、これまでやってきたこと、今から会社でやりたいやっていきたいことなどをまとめてプレゼンで発表しなければなりません。
自分に問いかけてみると、「将来、この会社でやりたいことがない」という本心に気づいてしまいました。
しかし、今までいわゆる いい高校、いい大学、いい会社と世間的には成功と言われるレールに乗り、うまくやってきた人生を手放してしまっていいものなのか?
収入が安定している松下に残ってこのままやっていくのか?それとも本当にやりたい操体の世界へ思い切って飛び込むのか?について真剣に悩むことになりました。
そうなると、今まで吐いてきた会社への愚痴が全て自分に跳ね返ってきてものすごい自己嫌悪に陥りました。愚痴るということは甘えているのです。私は会社に甘えていた傲慢な自分に気づいて大きなショックを受けました。
周りは真剣に主任試験に受かりたいと思っている人ばかりなのに、自分は中途半端な気持ちで外見だけは優等生ぶったふりをしている。そんな本音と建前のギャップに相当苦しみました。
「いっそのこと主任試験を辞退しようか・・・いや、でも推薦してくれた上司に悪いし。」などと毎日物凄く悩みました。
朝、起きると胃がギューッと痛くて会社に行くのが苦痛で仕方なくなりました。あのときは完全に鬱病だったと思います。
結局、主任試験当日は精神的にズタズタの状態でしたが、結果は合格でした。
「せっかくだから、もう半年ぐらい続けようかな」と一時は思いましたが、どんどん体が苦しくなっていきました。
自分に嘘はつき通せません。決断にいたるまでに相当な勇気がいりましたが、遂に意を決して上司に退職の意志を伝え、円満に退社することができました。
独立開業当初の苦労
2004年4月 会社を辞めた翌月から「操体おおほり癒養院」を独立開業しました。屋号は師匠である青木先生の「操体あおき癒養院」からいただきました。療養院と間違われるのですが、「癒養(ゆよう)」というのは「自分の心身を癒し、養う」という意味の造語です。
実は、会社を辞めた当初は実家の神戸に帰って開業するつもりだったのです。
でも、前々から人生相談に乗ってもらっていたブックドクターあきひろさんにこう言われたのです。
「りょう、お前は東京に残って一人でやった方がええぞ!実家におったら家賃も寝るとこも食事も心配せんでええけど、こっちに残って自分一人でやってみろ」
「えええっ!」と思いましたが、この一言がなければ、今の自分はなかったと思います。あきひろさんには本当に感謝しています。
そんなわけで、新小岩から徒歩15分のワンルームアパートの一室でお客様ゼロ、知名度ゼロ、信用ゼロ、自信ゼロ、実力ゼロの状態から開業しました。
会社を辞めるときに会社関係や友人達200人にはがきを出しましたが、実際に来てくれた人は・・・3人だけでした。
ショックでしたが、考えてみれば、普通のサラリーマンだったやつがいきなり開業したと言っても信頼がないので誰も来ないはずです。
お客様は来ないし、何もやることがないのでとにかくHPを充実させました。そして、ブログ、メルマガ、mixiを開始!何かの集まりやオフ会には積極的に参加しました。少しずつお客さんが増えてきた頃に雑誌hanakoに掲載されたことで信頼度が増して、半年ぐらいでなんとか生活できるぐらいになりました。
不安や恐怖に押し潰されそうになりながらも自分を鼓舞し、ゼロから一人でスタートして軌道に乗せれたことが自分への大きな自信につながりました。
操体の仕事がうまくいきだしたので、2005年2月に思いきって吉祥寺に引っ越しました。吉祥寺を選んだのはなんとなく「いい街だな~住みたいな~」と思ったからです。後で知ったのですが吉祥寺は「住みたい街ランキングNO.1」なのだそうです。
順風満帆と思ったのも束の間、次の試練が待ち受けていました。当時、おつき合いしていた女性と結婚しようという話になっていたのですが、なんと挙式の2か月前に婚約を破棄してしまったのです。
再び、人生のどん底へと転落です。そして、このことがきっかけで心理学を学びはじめました。
日本メンタルヘルス協会の衛藤先生の講座で少しずつ癒されていきました。
「どうして女性とうまくいかなかったのか?」
「どうすれば人の気持ちを理解して、うまくコミュニケーションがとれるのか?」
「操体でよくなっても、すぐに元に戻ってしまう人がいるのはなぜだろうか?」
心理学を学ぶことで、抱えていた疑問が少しずつ解消されていきました。
そして、日本メンタルヘルス協会の研究コースを受講して心理カウンセラーの資格を得ると共に、そこで今の妻と出会うことになるのです。人生って本当に面白い巡りあわせになっていると思います。
天命への気づき
ある日、操体のお客様として来ていただいた心理カウンセラーの新田義治先生から「人間は誰にでも天命がある」という話を聴いたことがきっかけで、「天命の暗号」(出口光著)を読みました。
そのとき、なぜ自分が他の治療法ではなくて操体法を選んだのか?が分かったのです。
私の人生のテーマは一貫して「自由」になることだったのです。
開業して5年ほど経ちましたが、サラリーマン時代に理想としていた「自由な生活」が手に入りました。
私にとって自由であるとは、自立していることです。
自由であるためには、本当の強さが必要です。
不安、恐怖、怒りなどがない状態、すなわち平常心が必要。その平常心を育てたいがために私は無意識に武道をやってきていたのです。
そして、運命的に少林寺拳法と操体に出会いました。少林寺拳法のまずは自己確立し、それから自他共楽するという教えは、操体と共通しています。
私にとっては、どちらも自分を客観視するための修業であり、「我(が)」を無くしていく修業なのです。(まだまだ我が強いので、この修業はおそらく一生続きます)
考えてみれば、高校時代は剣道部で主将、大学時代は少林寺拳法部で主将、松下時代のコジマビデオキャンペーン、操体の先生・・・やってきたのは、すべて「その人達が自分でできるように」と思ってやってきたことばかり。私は昔から一貫して、依存ではなく自分ひとりの力でできること=自立すること に価値をおいて生きてきたのです。
少林寺拳法と操体法を選んだのは自分の天命に関係していたからなのです。
天命を意識するようになってからは、迷いがなくなりました。そして、人のことを羨ましいと思うことが少なくなりました。
(人のことが羨ましいと思うということは、「自分の道を生きていない」「本当の自分になっていない」という証拠です)
今、私は「自分のやるべきことはこれだ!」という自覚をもって施術をさせていただいています。
なぜ操体師である私がカウンセリングをすることになったのか?
開業して5年ほど経ったころ、どうやら身体ではなくて心理的なことが原因な人が多いことに気づきました。
操体法は身体の歪み、痛み、凝りを改善し、バランスを整えるには最良な方法で、 ダンスや武道をしている人には大変即効性があって好評でした。
しかし、施術経験を重ねるにつれて、どうやら「体だけの問題ではない」人がいるということに気づきました。
開業した当初は、このように心の問題を抱えていることが原因の人に対しては力不足でした。
実は、長年にわたって原因不明の症状を患っている人のほとんどが 心の問題を抱えているのです。もう少し具体的に言うと 『人間関係に問題を抱えている(自分自身との関係も含む)』のです。
心理面からのアプローチ方法を学ぶ必要があると感じたときに、 「操体法はカウンセリングと同じですね」というお客様の言葉がきっかけで 心理学を学びはじめ、2007年には日本メンタルヘルス協会の研究コースを卒業し、 公認心理カウンセラーの資格を取得しました。
その後、自分の天命を探求するセミナーに出会って、 「人生の転機を迎えている人を自立支援すること」 が自分の天命・志なのだと自覚することができました。(※現時点ではまた天命が変わってきています)
そこから、自分一人でもできる心理療法はないものか? と各種セミナーに出てはノウハウを物色していきました。
TFT(思考場療法)、選択理論、気功、四魂の窓、 ホ・オポノポノ、TAW理論、NLP、コーチング・・・
色々試した中でも、心理カウンセラー新田義治先生から学んだ 感情解放テクニックと操体法の相性が大変良いことがわかり、 施術に採用して約5年間で何百人もの人に実践し続けました。
その結果、腑に落ちたことがあります。 心も体も「認めると治る」「理解すると治る」のです。
心も体も治して欲しいわけではなくて、 分かって欲しい、理解して欲しいのです。
そういう意味ではカウンセリングと操体法は 手法は違えど、同じことをやっているのだとわかったのです。
実はこの世界は「感情が現実化している」ので、 マイナス感情を消すことでマイナスの出来事も自然と消えてしまうのです。
私はわずか数分でトラウマとなっているマイナス感情を解放して、 心スッキリな状態にできるようになり、半年ほど継続してカウンセリングをすることで、お客様の人生を根本から改善できるようになっていきました。
独立起業して実践&研究し続けること10年。 ようやく心と体の両面から自分自身でも納得のいくような施術スタイルが確立できたのです。
アダルトチルドレン専門カウンセラーになった理由
実は今から思い返せば、操体法だけで営業しているときからアダルトチルドレンのお客様が通ってくれていたのです。まだカウンセリングのメニューもなく、アダルトチルドレンのことを何も私が知らなかったのにも関わらず!
おそらく操体法はアダルトチルドレンの人にとっては母性的であり、受容であり、存在の承認ですから、相性が良かったのでしょう。その後、岡田ユキさんからアダルトチルドレンのことを詳しく教えてもらってからは、どんどんアダルトチルドレンのお客様が増えていきました。
さらなる転機は、子供が生まれて三人娘になったときに訪れました。「私はクライアントから父性(お父さんのエネルギー)を求められているのだ!」ということに気づいたのです。クライアントの中の子供の部分に対して、自分の娘に言うのと同じように語りかけることでセラピー効果が格段に高まることがわかりました。
↑三人娘の父親としての経験がカウンセリングに活かされています。
おそらく「お父さんとしての在り方を探求すること」が私の天命に含まれているのでしょう。私のカウンセリングルームには現在、お父さんとの関係をやり直したい人しか来ていません。お母さん的なカウンセラーは世の中に山ほどいますが、お父さんの代理をやってくれるお父さん的なカウンセラーはまだまだ日本には少ないのです。これが私の強みとなっています。私のカウンセリングルームは親との関係が悪くて実家に帰れない人にとって「安心して帰れる実家」なのです。
そこで、2014年からはアダルトチルドレン(200%)の人だけを専門でカウンセリングすることに決めました。本気で人生を変えたい真剣なお客様だけを相手にすると決めたのです。そのおかげで私にピッタリ合うお客様だけが来るようになり、カウンセリングの成果が以前にもまして出るようになってきました。これを読まれているあなたと出会えることを楽しみにしています。
長い文章を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
さあ、今度はあなたのストーリーを私にお聞かせください。お会いできるのを楽しみにしています。
★さらに詳しく大堀亮造について知りたいあなたへ なぜ、アダルトチルドレン専門カウンセラーになったのか?生まれたところから過去を振り返りながら、【全55話】で人生ストーリーを綴る世界観ブログの記事はこちら!
経 歴
●1994年 兵庫県立兵庫高等学校卒業 剣道部主将
●1998年 関西学院大学商学部卒業 関西学院大学少林寺拳法部第31代主将
●1998年 松下電器産業株式会社(現在のパナソニック株式会社)に入社。主に家電量販店ルートのエアコン担当としてコジマ、ケーズデンキなどの本部商談を担当。6年間勤務。
●2004年4月 操体法(そうたいほう)という民間療法で独立開業(操体おおほり癒養院)
●2005年2月 吉祥寺にお店を移転
●2005年 心理カウンセリング、各種心理療法を学びはじめる
●2006年12月 株式会社HAPPY SPIRALを設立
●2007年 日本メンタルヘルス協会認定公認心理カウンセラーの資格取得
●2010年 感情解放カウンセラーとして活動開始
●2014年 アダルトチルドレン専門カウンセリングに転向
●2018年 書籍「なぜ、あなたのアダルトチルドレンは改善されないのか?~父親から愛されなかったあなたへ」を出版。アマゾン「親子関係」売れ筋ランキングで第1位獲得。
【その他の趣味、資格】
・日本メンタルヘルス協会公認認定 心理カウンセラー
・日本TFT協会認定 初級セラピスト
・少林寺拳法四段(関西学院大学少林寺拳法部第31代主将)
・剣道二段(中学、高校と剣道部に所属 高校は剣道部主将)
・中国伝統武術 通背拳初段
・古武術
・スキューバダイビングPADIアドバンスド・オープンウォーター
なぜ、自信が持てず、本音も言えず苦しかった
652人のアダルトチルドレンが
恋愛、結婚、子育て、仕事の悩みを解決して
自分らしく、強く生きられるようになったのか?